でぐちろし

でぐちろしのブログ

恥と意地とプライドとについての私見

僕らは感情と意地と恥意識とプライドに凝り固まった生物です。

 

だけれど、そういう意地とかプライドとかは無ければ無い方がいいと思っています。

小さな意地やプライドにとらわれることで大事な判断がぶれることがありますもんね。

 

僕はもう15年ほど「プライドを捨てる!」を信条にしてきました。

そういう凝り固まったプライドは、意識してれば捨て(ら)れるようになる、というのが僕の経験談です。「ああ、プライドが邪魔をしているな。捨てなければ!」と日々自身に語りかけてきました。

 

ただ、細かいプライドは今でも大人げなく脳裏に浮かんでくることがあって、そのせいで余計な意地を張ったりイライラしたり腹を立てたり、素直になれなかったりすることがある。感情の乱れも結局はプライドの高さが起因している。プライドがなければ、そもそも感情が安定せず振れてしまったり、他者にイライラを向ける根拠が心の中にないはずです。それらは全て自己正当化欲求、言い換えればプライドの維持が元凶だからです。

 

この社会で「いっぱしの人物として世間から評価されたい」。このような承認欲求は現代人間社会において、経済的独立、仕事の優劣意識や「スゴイと言ってもらえる仕事」への賞賛、資産の有無、学歴、、、その他自分が他者に対して誇れるあらゆることの隅々まで広がっていて、このプライド(他者に高評価してほしい)というものから自由になるのは並大抵のことではない。

 

ただ、そこはマインドを切り替えていく必要が僕はあると思っていて、プライドに縛られる人生は結局【自分の人生を生きている】と言えるのかどうかと僕は疑問に思う。単純に、プライドの高い人と過ごしていても、一緒に過ごしている人は楽しいことは何もないしね。

 

さて、一度しかない人生。自分の人生。

誰の評価を気にして生きていくのか?誰か他人の価値基準に則り生きていくのか?誰に遠慮して生きているのか?誰になんと言われようがそれが大したことなのか?

(いつも自分の行為についての言い訳や、自己正当化、自己弁護が頭の中で渦巻いている人はプライドから逃れられない人なんだろうと思います。もちろん誰でも多少はあるのだろうけど)

 

それで最終的に「良い人生だった」と思えるのか。(そう思える人は自由に生きれば良いと思います。僕のあずかり知らぬところではありません)

 

珍しく長文になりましたが、成人してからも性格や感性は変えられる。「自分はこういう人間だ」と思い込んだり決めつけたりする必要は全くない。

今日から殻(キャラ)を破ることも第一歩です。誰もそれほどあなたのキャラ変に興味を持ってないし、3日経てばそういうキャラとなる。(ここまでの話からすればそもそもキャラとかどうでもいいのですが)

 

意地やプライドやキャラで枠にはまってしまっている自分を解き放てば、細かいことにとらわれ過ぎない楽しい未来があると僕は経験から感じます。

 

他者からどう思われるか、どう評価されるかそんなに大事ですか?誰からなんと思われようが自分の人生に大きな影響を受けず図太く生きるということも、幸せに生きる重要な術だと思うのです。